所有者の変遷 |
(株)河内屋 |
設計者、施工者、 その他情報 |
安藤安夫(建築時)、大林組東北支店設計部(改修時) |
様式、特徴 |
当時流行したロシア風建築とアールデコ調の様式を取り入れた外観、内装が特徴で、当時の八戸ではモダンな様式として注目を浴びた。 |
構造 |
木造 |
建物の使われ方 |
酒造会社の事務所として建てられた。現在は建物を所有する酒造会社の直営により、八戸の郷土料理を提供する飲食店として利用されている。 |
年間利用者 |
18,000人 |
歴史、変遷 |
平成10年からテナント営業を開始。秋田比内や八戸店として活用されたが、12年8月、契約期間満了とともに閉店。その後各方面に打診するも後継者が見つからず地域からの声もあり関連会社(株)河内屋が地酒の館「大正ロマン」としてスタートさせ、現在に至っている。 |
地域の思い |
まちのシンボル的な存在として市民に親しまれ、昭和62年に創設された「八戸市まちの景観賞」の受賞第一号となった。 |
再生の目的 |
酒造会社側では、建物を八戸のまちづくりに役立てたいと考えている。 |
保存・再生活用 に至る経緯、 地域の意見 |
・八戸市では昭和55年ごろから、中心市街地にある古い建物の取り壊しが相次いだため、市民の間で古い建物に対する関心が高まった。このような中で行われた市民アンケートにおいて、後世に残したい市内の建物として最も多くの人から選ばれたのが河内屋であった。こうした市民の声が最終的に河内屋の保存へとつながった面は大きい。その後、八戸市八日町の酒造会社「河内屋橋本合名会社」の建物を後世に残そうと市民団体「フォーラム『河内屋』」が発足。大正末期の建築で、当時の八戸の中心街の風情と面影を残す数少ない建物を市民にその存在と良さを知ってもらい、後世に残そうという運動がはじまった。 ・中心街の電線を地中に埋めるキャプシステム工事で建物を1mほど後退させなければならないが、構造上そのまま下げるのは困難で、費用がかかり過ぎる。その時に解体の道も選択肢にあったが、解体に賛成する者はいなかった。費用の問題を別として、市民のみんなが残したいと思っていた。 |
手本事例 |
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機能・用途の変更 のための 改修操作 |
・事務所から飲食業に変身するための内装工事を行った。 ・建物を一旦解体し、同一敷地内に移築した。 ・外観および内部のカウンターやステンドグラスはそのまま残した。 |
法規クリアの ための改修操作 |
・外壁下見板の下地に防火材を張り付けた。 ・筋交いを増設した。 ・延焼の恐れがあるガラス窓を網入れガラスに変更した。 ・内部の耐震補強を行った。電線地中化事業で建物の後退が必要となった上、平成6年の三陸はるか沖地震で建物が傷み、存続が危ぶまれたが、市民からの強い要望を受け保存が決定された。 |
建築の歴史や 記憶を残すために 保存したもの |
・外観のほとんどをそのままのかたちで復元改修した。 ・1階事務室のカウンターをそのまま残した。 ・2階廊下の壁の一部を展示した。 |
改修にあたって 現場で発見した 苦労など |
移設の為に解体してみたら、柱の下部分が相当痛みがひどく、大部分を継ぎ木して改修した。復元改修に当たっては、建設当時の貴重な写真を参考にし、より忠実に当時の建物に近づけた。 |
改修当時の 法規との関係 |
今回の移築改修工事は、八戸市の建築行政の理解がなければ不可能であった。この地域は防火地域であるので木造の建物は建てられない地域である。しかし、市民団体の運動が八戸市の行政を動かし、八戸市の粋な計らいで何とか許可がおりた。しかし、そこには法規の最低限の守らなければならない条件があった。 1.同一敷地内であるから、原則的には曳き屋であること。 2.外壁は防火材料であること。 3.延焼の恐れのある部分は網入れガラスであること。 4.排煙計画がクリアされていること。 5.避難設備がクリアされていること。 6.構造上壁量計算がクリアされていること。 7.その他。 行政と協議打ち合わせを行いながら、一つ一つ可能な道を探りながら、現実の物としてきた。 |
文化財等の指定 |
・平成10年には国の登録有形文化財に指定され、近代文化遺産としての保存・活用が図られることとなった。 ・八戸市教育委員による調査も有った。 |
事業費 |
141,403,505円 |
補助金 |
なし |
改修後の声/ 今後の展望 |
・建物の維持管理や補修に多くの費用がかかる。酒造会社側によれば、建物内での飲食店経営は、これらの費用を生む目的もあるということである。 ・内装工事が多額に及び、借入金で賄ったため、営業収支が予定通り進まず苦慮している。 |
その他 |
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参考資料 |
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